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【生活のSDGs】シリーズ「発酵からサステイナブルを考える」②

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Ⅱ.「発酵」として考えられるもの① 禅、量子力学、カスタネダ

前回みたように、発酵とは「微生物や菌などの目に見えない生き物のはたらきで、人間にとってうれしい何かが生み出されること」でした。
これを人間の側から言い換えると、「目に見えない生き物が気分よくはたらいてくれるように、なんやかんやと世話を焼くこと」と言えます。
発酵は、微生物たちを活用した技術であるに留まりません。
それは全く異なるルールで世界を生きている未知のものとの共生を試みることなのです。

発酵は禅的メディテーションである

僕は自宅で糠床を育てはじめたのですが、なかなか味が安定しません。
「これはお世辞にもおいしくないな」というものができあがったとき、悔しいので涼しい顔して平らげますが、頭の中では今回は水気が多くなりすぎたかな、かきまぜ方が甘かったかな、なんて、いろいろと仮説が持ち上がってきます。そして干し椎茸を入れておくと水分を調整できて良いらしい、今度は雑菌の繁殖を防ぐために塩も足してみよう、というように新しいやり方を試してみたくてたまらなくなります。

そうやっているうちに、おいしく漬かるととっても嬉しい。
糠床の中に無数にひしめく微生物がいま快適でいるかどうかを想像しながら、あれやこれやとご機嫌伺いをしていくと、この多様な微生物の形作る王国は、人間界においしい漬物を返してくれます。
糠床という未知の王国を前に人間である僕たちができるのは、手を尽くし、あとは待つことだけです。
けれどもどれだけ気を配っても、気温の変化や、かき混ぜ方ひとつで、すぐに味は人のコントロール下から抜け出してしまいます。
糠床を育てることにゴールはなく、ただ日々糠床に手を入れるという行為があるのみです。
確固たるゴールもメソッドもなく、ただ行為のなかに生起するもの。こうなってくると、僕は曹洞宗の「只管打座」を連想します。

曹洞宗において、座禅は悟りに至る体系だったメソッドではありません。
つまり、どれだけ座禅をしても、それで悟りという「ゴール」にたどり着くわけでも、これさえ知っていればもう悩みなんてなくなるというような「答え」を獲得するわけでもないのです。ただひたすら座ること、ただひたすらに食べ物をいただくこと、ただひたすらに廊下を磨くこと。曹洞宗の修業とは日々の行為そのものであり、悟りというのは行為そのもののなかにのみ宿るものとされます。
「どうやったらおいしく漬かるだろうか」という試行錯誤とともに糠床は育ちます。微生物の生のサイクルは人間の尺度でいうとあまりにも短く、糠床ではほんの一晩で何世代もの代替わりがなされているので、一度おいしい漬物(悟り)を得たからといって、それが未来永劫続くわけでもありません。毎日糠床に手を入れかき混ぜる。その行為のなかにしか、おいしい糠漬けは結実しません。
僕はきょうも、座禅をするような気持ちで糠床と向かい合いたいと思います。

発酵は量子力学にも通じる

また、目に見えないものへのアクセスを試みるという点で、発酵は量子力学とのアナロジーをも語りたくなってきます。
量子力学というのは、ものすごくざっくりいうと「サイズが違えば原理も違う」という理論です。詳しくは本メディア「Oxygen」でも特集を組まれている「量子力学フェスQuantum」の記事をご参照ください。
ちょっと寄り道になりますが、ドイツの生物学者ユクスキュルは「環世界」という概念を提唱しました。それぞれの生物はそれぞれに異なった世界の知覚の原理をもっていて、異なった原理で知覚される世界はそれぞれ全く異なった様子であるだろうという考え方です。このそれぞれ全く異なった世界のことを「環世界」と言います。
人間の見ている世界は、人間の知覚する「環世界」であり、ノミはノミの「環世界」を、象は象の「環世界」を持っているのです。
量子力学はこうした「環世界」的な視座を、物理学の分野にまで拡張したともいえるかもしれません。
発酵は、微生物たちの「環世界」を想像することでもあります。
発酵食品づくりを実践するうちに、僕たちは微細な生物たちの「環世界」の一端に触れて、「知覚できないほどの小さなサイズの世界では、自分たちの常識からは考えられないような原理が働いている」ということを直感的に理解します。
ともすると年寄りくさい、所帯じみているというようなイメージも根強い糠床ですが、実は最先端の科学的知見にもアクセスできうる優れたインターフェースであり、発酵は個人の意識や思考を拡張させるメディアなのです。

発酵はカスタネダの描いたドン・ファンである

発酵というのは微生物と人間との共生のテクノロジーです。
けれども発酵食品は人間が微生物の存在をちゃんと認識するずっと以前から、食卓を彩っていました。
そこには顕微鏡以前のアニミズムの合理とでもいうようなものがあったに違いありません。
英語で発酵を意味する“ferment”は語源的には「沸騰する・ぷくぷく泡立つ」という意味を持っています。アルコール発酵によって泡立つさまは、化学反応なんていう概念を持たない古代の人にとってみればそれこそ神の御業にみえたことでしょう。
日本でも、お祭りになるとお神輿をわっしょいわっしょい振りますが、これは神々は振ると元気になると信じられてきたからだそうです。糠床や甕の中のお酒をかきまぜるのも、空気を含ませて発酵を促進させるためであることを考えると、昔の日本人がお神輿の中に視ていた「神」とは発酵菌のことであったと思えてきます。

発酵というのは禅的瞑想にも、科学的知見にも援用できるとびきり刺激的なメディアであることはここまで書いてきたとおりです。
さらに発酵というのは、ネイティブ・アメリカンのように「精霊を味方につける」技術でもあるのではないかと、僕は感じています。

アメリカの人類学者カスタネダがヤキ族の首領ドン・ファンに弟子入りしその精神世界を体得していく著作群はヒッピーカルチャーのバイブルとも呼べるものですが、リアルタイムでその熱狂を体験したわけではない僕は、むしろ真木悠介の名著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)によって鮮烈な印象を得ました。カスタネダの著作は今読むと古臭い偏見や旧習にとらわれすぎているきらいがあり、読んでいてまどろっこしいのですが、本書はカスタネダ以上にドン・ファンの思想を理解している人物によって書かれたものだと感じたのです。
ここからは、『気流の鳴る音』の整理に従ってドン・ファンの教えを見ていきます。

ドン・ファンは物わかりの悪い弟子カスタネダに、知者への道を示し続けます。
ヤキ族にとっての知者とは精霊を味方につけ「心ある道を行く者」のことです。
自分の道を歩くこと、自分の踊りを踊ること。「心ある道」はそうした人のもとに現れます。その道とは知者をゴールへ導くものでも、知者の歩き方を決めつけるようなものでもありません。「心ある道」を歩くとき、知者は歩くことそれ自体を楽しみ、歩くことそれ自体に満足しきっています。ここでもまた「只管打座」という禅の実践を思い出さずにはいられません。

真木氏の整理によると、人が「心ある道」を見つけるためには四つの段階を経る必要があります。
要約するにはあまりに難解で抽象的なのですが、雰囲気だけでも共有できればと思うので、簡単にまとめてみると下のようになります。

①人間主義の彼岸
自然を、主体である自己と対立した客体としてとらえるような「自我中心」の認識から脱却し、自分も自然を構成する一要素であることを自覚する段階。

②<明晰の罠>からの解放
世界に起こっているものごとを「分かる」という「明晰さ」が、かえって「分かちがたく」結びついた関係性のなかにのみ現れる意味への「盲目」を生んでしまうことを自覚する段階。ここで人は分析し理解することから離れ、世界そのものとして世界に溶け出していく。

③意志を意志する
世界に溶け出しきってしまうと自己はすっかりなくなってしまう。それでは困るので「コントロールされた愚かさ」を駆使していま一度「明晰さ」を取り戻す段階。ここにきて人は解脱(全体)と執着(個人)を自在に行き来できるようになる。

④<意味の疎外>からの解放
この段階に至るまでに、人は人間界と精霊界を自在に行き来する超越者となっているが、だからといってその力をもってして何かを成し遂げようと思ってはいけない。自分の人生に意味を欲することは、魂を目的地という「ここではないどこか」に放置してしまうこと。そうなると意味によって自己が自分自身から阻害されてしまう。ここでようやく目的地ではなく道そのものに傾注する段階に至る。そしてそれこそが「心ある道」を歩むということなのだ。

いかがでしょうか。
ぼんやりとした印象だけでも伝わったでしょうか。
僕はこの知者への道のりが、発酵の話に思えて仕方がないのです。
続いては、さきほどのレジュメを糠床の話として読み替えてみましょう。

①人間主義の彼岸
発酵の魅力に目覚めることで、「人間中心」の世界観を脱却し、微生物との共生を考える段階。これは禅的段階といえるかもしれない。

②<明晰の罠>からの解放
微生物を人間のものさしで「分かった」気になっていると、微生物の「環世界」について「盲目」となってしまう。おいしい糠床を作るためには微生物になりきる態度が必要だと気が付く段階。これは量子力学的見地の獲得ともいえる。

③意志を意志する
微生物になりきりすぎてしまうと、人間社会での生活に支障をきたしてしまいかねない。人間の「環世界」も見失わないように、ヒトと菌とのあいだを行き来する段階。ここにきてようやく微生物という「精霊」を味方につけることができる。

④<意味の疎外>からの解放
「おいしい糠床を作る必勝普遍のメソッド」なんてものはないし、そんなものを追い求めてしまうと自分で発酵食品を醸す楽しみを見失って個人の工場化に突き進んでしまう。糠床は日々探求し、育てていくこと。それを楽しむことなのだと知り、日々糠床をかき混ぜる。発酵って楽しい!

このように、発酵をとっかかりに禅、量子力学を経由して、スピリチュアルな生き方の変革にまで妄想は膨らんでいきました。

発酵は、単なる現象や技術にもとどまらず、それ自体で思考を爆発させる示唆に富んだカルチャーであることがお分かりいただけたかと思います。
発酵を考え実践することは、自分自身をも変えていく可能性を持っているのです。

今月は発酵がいかに個人の可能性を拡張するかについて考えていきました。
来月は発酵を通じて、今度は社会をのぞいてみたいと思います。 

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町でいちばんの素人

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柿内 正午
91年生まれ。26歳になり物心がついた2017年ごろからものを書き始める。
言葉を売買する会社・もっとmots( @motomots )契約社員/零貨店アカミミCEO(開店準備中)/町でいちばんの素人/都市型密猟者

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