生活のSDGs

【生活のSDGs】シリーズ「発酵からサステイナブルを考える」③

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Ⅲ.「発酵」として考えられるもの② 贈与経済、相互扶助社会

本連載の第一回では発酵が「目に見えない生き物のはたらきで、人間にとってうれしい何かが生み出されること」であると定義しました。

そのうえで、前回はそうした「目に見えないもの」との共同作業である糠床は、自分には理解しがたい「環世界」を想像する力を鍛え、禅的マインドフルネスや量子力学的発想力を身に着ける優れた自己拡張ツールなのではないか、というようなことを考えていきました。

発酵は、僕たちの身体の健康に効く現象であるにとどまらず、個々人の意識を高めるのにも役立つメタファーでもあるのです。

糠床がひとつの自己拡張ツールであるのならば、同じく自己拡張ツールである社会との相同を考えていくことだってできなくはないはずです。

 

微生物にとってのうんちやげっぷが人間にとってのごちそう

まず、第一回でも説明した発酵の仕組みについておさらいしておきましょう。

”僕たち人間が酸素を使って糖類をエネルギーと二酸化炭素とに分解して二酸化炭素を「ゴミ」として吐きだす(呼吸)ように、微生物たちもエネルギーを得るために物質を分解する過程でさまざまな「ゴミ」を出します。 しかしこの微生物にとっては「ゴミ」でしかないものが、人間にとってはとびきり嬉しいもの、おいしいものであることがあって、そういうとき、僕たち人間はこれを「発酵」と呼ぶのです。”

微生物の行う代謝によって出る「ゴミ」が、僕たち人間にとって「ごちそう」であるとき、人はこの微生物の行いを発酵と呼ぶのでした。

たとえば、ヨーグルトなどの乳酸発酵は、乳酸菌による発酵です。

微生物や人間を含めたすべての生物はご飯を食べないと死んでしまいます。

死なないためには、生きるために必要なエネルギーをごはんを食べることで取り込む必要があるのです。このエネルギーはATPと呼ばれます。

乳酸菌のごはんはグルコースという物質です。

乳酸菌はこのグルコースをATPと乳酸とに分解します。

このうちATPを生きるための活力として取り込んで、乳酸は捨ててしまいます。

つまり乳酸は乳酸菌の「うんち」なのです。

この「うんち」が僕たち人間にとっては酸っぱくておいしいので僕たちは喜びます。

この喜びこそが「発酵」と名付けられたものの正体です。

僕たちはともすれば発酵食品を食べるとき、「微生物からの恵みに感謝だなあ」という気持ちになってしまいがちです。

けれどもそれはちょっと違います。

発酵食品は微生物からしてみれば「ゴミ」です。「うんち」なのです。

私たちが喜んで酔っぱらうアルコールだって、微生物の「げっぷ」です。

微生物側からしてみればまったく不要な「残りカス」なのです。

発酵食品はお恵みなんかではありません。

僕たち人間が、微生物の出した生ゴミをありがたく失敬しているだけなのです。

 

あなたにとっての「うんち」や「げっぷ」が、誰かにとっては役立つ「アウトプット」になる

ここまで読んでくださった方は「ばっちい!」「もう発酵きらい」などと感じてしまったでしょうか。

とんでもないのです。

この発酵の原理は、まさしく僕たち人間の暮らす社会をよりマシなものにしていくために何ができるかを考えるとき、ものすごいヒントとなると僕は考えています。

ここからは、僕の主観的な社会に対する印象スケッチです。

その程度のものと思って流し読んでください。

ここ数年、「もう資本主義はだめなんじゃないかしら」というような気分がそこかしこに蔓延しています。

そんななか、資本主義へのオルタナティブとして見直されているのが贈与経済や相互扶助社会です。

こうした文脈で見たとき、「贈与経済」はギフトで循環する経済モデル、「相互扶助社会」はお互いに助け合って生きる社会というように、どちらもかなりざっくりと理解されているように思います。

そもそも贈与経済と相互扶助社会は一緒くたにまとめて議論するようなものでもありません。ですが、ここは時代の「気分」を表すキーワードとして、この二つの言葉が指し示す「印象」(概念というにはあまりにぼんやりとしています)を扱わせていただきます。

モースさんやクロポトキンさんが聞いたらカンカンに怒り出しそうです。

さて、こうした時代の「気分」としての贈与経済、相互扶助社会を考えるとき、私はいつもどこか割り切れなさを感じていました。

 

「顔の見えない企業やブラックボックスと化した生産手段に頼り切るのではなくて、しっかり顔と名前の一致した気の合う仲間とコミュニティを作り上げて、そのなかで手に手を取って小さく豊かに生きていこうよ。自分の得意なことで誰かを助け、自分のできないことは誰かに助けてもらおう。」

 

ここで扱う「気分」とは以上のようなことですが、確かにこれって友達が多い人や、人づきあいが苦じゃない人にとってはユートピアかもしれない。

けれども僕のようにできるだけ自宅に引きこもっていたいし、面倒くさいから友達もあんまりつくりたくない、みたいな人間にとっては地獄以外の何物でもありません

それに、もしそういう小さな経済圏・社会に馴染めたとしてだよ、そもそも他人に贈与できるようなお金もスキルもなあんにも持ち合わせていない僕のような人は、ユートピアのフリーライダーにしかなれないんじゃないだろうか。それってすっごく居心地が悪いじゃん!

さらにさらに、もし仮に僕が他人に役立つようなスキルを身に付けたとしよう。そのとき、かつての何も持たなかった僕のような人に、快く自分のスキルやお金をプレゼントできるかって問われたら、けっこう怪しい。贈与経済は循環するからこそ成り立つのだし、相互扶助社会だって「お互い」に助け「合う」ことに意味がある。僕はせっかちだから、すぐさま見返りがあることを期待できないような人のことを助けることができるだろうか。ぶっちゃけあんまり自信がないです!なぜなら心に余裕があったことなんてないし、根っからの貧乏性だから!

 

……ついつい取り乱してしまいましたが、僕が感じる割り切れなさは、このようなものです。

 

そしてこの割り切れなさを打破するもの、それが「発酵」というメタファーだったのです。

発酵は微生物の出す「ゴミ」を人間が喜ぶことでした。

微生物は乳酸という「うんち」やアルコールという「げっぷ」を出して僕らを喜ばせてくれます。

けれども微生物は僕らを喜ばせるために「うんち」や「げっぷ」をしているわけではありません。

「うんち」や「げっぷ」は、ただするものです。

ここに、僕は僕なりの贈与、相互扶助の可能性を見つけたのです。

 

発酵は微生物から人間へのギフトです。

このギフトを得るために、僕たち人間は微生物が気持ちよく活動できるように環境を整えます。

人間は微生物のために環境を整える。

微生物はより生産性を高められる環境で気持ち良く活動する。

人間は微生物がいきいきと活動すればするほど出す「ゴミ」の質や量が増していくので嬉しい。

ここに、僕はものすごくハッピーな社会システムの可能性を感じます。

 

結論を言いましょう。社会という「糠床」のなかで、人間も「微生物」になればいいんです。

 

僕がのびのびと活動していればいるほど、たくさんの「げっぷ」や「うんち」を出すでしょう。

そしてその「げっぷ」や「うんち」は、出した本人からしてみれば「げっぷ」や「うんち」かもしれませんが誰かにとってはものすごく有意義なアウトプットであるかもしれません。

僕はのびのびと生きていけてハッピー。誰かは僕のアウトプットによってハッピー。しかも僕は僕からただ出てきた「ゴミ」に対して貧乏性を発揮しようがないので、僕の出した「ゴミ」によって誰かが助かったことを純粋に喜ぶことができます。

 

ほら、このように人間が微生物的に動き回る「発酵的社会」では、「贈り/贈られる」「助け/助けられる」のような、不均衡の割り切れなさがありません。

ここにある不均衡は「身から出たゴミ/何か」という、あるアウトプットに対する評価のそれです。

この不均衡は、そこまで居心地の悪いものではないように、僕には感じられるのです。

 

このように考えてみると、理想の社会を考えるには「みんながのびのびと活動するためにはどうすればいいだろう」という観点からデザインを起こしていくのがいいように思えます。

また、そんな社会を形成する個人として考えるべきは「どうやったら他人に喜んでもらえるか」ではありません。

どんな『げっぷ』や『うんち』が人に喜ばれるだろう」と考えるべきなのです。

この問いは、たとえばより嬉しい「ゴミ」を出せるようなインプットはどんなものだろうと試行錯誤していくことに繋がるでしょう。

自分がどんなものをインプットするとどんなアウトプットが出てくるのか。

自分はどういうインプットが気持ちよくて、それがどう誰かにとっても気持ちのいいアウトプットにつながるのか。

自分を「微生物」に見立ててよりよい「発酵」を追求していくとき、それは必然的に「糠床」という環境を整えなくてはいけないという課題に出くわすでしょう。

僕ら人間という「微生物」にとって、「糠床」とは社会にほかなりません。

では誰が社会という「糠床」をかき回すのか。

それも、僕ら人間にほかならないのです。

 

「杜氏」として環境をデザインする政治、気落ちのいい環境でのびのびと「げっぷ」や「うんち」をする個人……

「発酵的社会」を考えることは、僕らがいま生きている社会をマシにしていくためのヒントをもたらしてくれそうです。

 

さあ、一緒にこの社会をおいしく醸していこうじゃありませんか。

 

「発酵からサステイナブルを考える」シリーズ最終回
「Ⅳ.「発酵」を通じて拓ける道 じぶんの「生き方」をDIYする」はこちら! 

町でいちばんの素人

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柿内 正午
91年生まれ。26歳になり物心がついた2017年ごろからものを書き始める。
言葉を売買する会社・もっとmots( @motomots )契約社員/零貨店アカミミCEO(開店準備中)/町でいちばんの素人/都市型密猟者

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