コラム

【生活のSDGs】シリーズ「発酵からサステイナブルを考える」④最終回

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Ⅳ.「発酵」を通じて拓ける道 じぶんの「生き方」をDIYする

前回わたしたちは発酵食品のおいしさは微生物の出す「ゴミ」であるというところから出発して、人間も同じように気持ちのいいインプットをして他人が喜ぶ「うんち」や「げっぷ」=アウトプットをしていけばだいたい皆ハッピーなんじゃないか、という一応の結論を得ました。

それは個人が気持ちよくインプットできて、その成果物としてのアウトプットを必要な人に還元できるような社会の仕組みを考えていく動機ともなるでしょう。

わたしたちという小さな存在が、お互いにインプットとアウトプットを交換し合うこの社会は、大きな「糠床」のようでもありました。

さあ、ここで問題となるのは私たちはどうやったらよりよいアウトプットが可能となり、他人にとっては有意義なアウトプットを行うことができるのか、ということです。やたらめったらアウトプットをするばかりでは、それを受け取る他人にとってもそれは「うんち」や「げっぷ」にしかならないでしょう。

今回はただ「うんち」や「げっぷ」を巻き散らかさないために、インプットとアウトプットの自分なりの理論を作り上げていきたいと考えています。こうした理論は人それぞれの置かれた環境や、これまで育んできた美学のようなものによって、多種多様なありかたがありえます。

そのためこれから作り上げる僕の理論は僕にまつわる様々な与件によって出来上がるものであり、ひとつのケーススタディとしてご覧いただければと思います。

入力と出力を繰り返す「わたし」とは何か?

社会という「糠床」に暮らす「微生物」としての個人。このメタファーはよりよい生活や社会の在り方をデザインするうえで多くのヒントを与えてくれます。

そのヒントの中でもっとも有用なもののひとつは個人の日常生活や社会モデルを考えていくうえで基本となる一つの問いに関するものです。
それは、「わたし」とは何か、という問いです。

糠床には多種多様な微生物が暮らしています。
糠床の住民たちがどのようにはたらくかは、それぞれの微生物単体によっては決まりません。温度や湿度、そのほか多くの要素が複雑に連動した環境条件に呼応して、異なる種の微生物たちは何らかの方法で連絡を取り合い、そのときそのときでどの菌の活動を優先するのかを決定し、糠床内の勢力図を書き換えていっているそうです。

僕はここ数週間、糠床をかきまぜるのをほったらかしにしがちなのですが、そうすると糠床の様子ははっきりと悪くなっていきます。風通しの悪い社会には腐敗がはびこるように、大事にされない糠床は臭くなって食べられなくなるのです。ごめん。

ともかく、そうした糠床の様子というのは、微生物の集合住宅でありながらも、それ自体で一個の意思を持った主体のようにも思えてきます。ここでいう糠床の意思とは、微生物たちのコミュニケーションによって形成される「情勢」にほかなりません。こうして考えていくとひとつの考えが去来します。すなわち、なんとなく絶対的に独立した主体として考えてしまう「わたし」というものも、実はこうした「情勢」にすぎないのではないでしょうか。

私たちの身体は自分たちの細胞よりも多くの数の微生物が暮らしています。
人体とは多種多様な微生物が生きるひとつのエコシステムなのです。

腸の中に住む微生物によってわたしたちの感情が左右されているのではないかという研究もあります。わたしたちの感情や思考というのも、この身体というエコシステム内での微生物の「情勢」の表れなのかもしれません。個人というのは、社会をとらえるマクロな視点だと「微生物」ですが、個人そのものをとらえるミクロな視点では「糠床」なのです。

「あいだ」にこそ「わたし」はある

社会という「糠床」の状態は、そこに生きる「微生物」としての「わたし」たちの「情勢」によって決まります。そしてそうした社会の在り方をつくる「わたしたち」もまた体内の微生物の「情勢」によって決まるのです。

さらに、糠床の微生物たちが糠床の環境条件によって自らのはたらきぶりを変状させていくのと同じように、「わたし」もまた社会という環境によって様態を変えていきます。

あらゆる関係性からまったく孤立した「自我」を持っている、とうのは「わたし」が抱きがちな幻想です。「わたし」の意識というものは、「わたし」だけに帰属するものではなく、「わたし」が周りと取り結ぶさまざまなコミュニケーションの「あいだ」に表れてくるものなのです。

「わたし」はほかの「わたし」とのコミュニケーション=相互のインプットとアウトプットのなかで、そのありかたを定めていきます。
「わたし」というのはそのように他社や社会との関係性、体内の微生物間の関係の様相によって、刻一刻とその在り方を変えていくものなのです。

「わたし」というのは「わたし」の外の環境と対立するものではなく、むしろ環境を映し出す「鏡」のようなものだという考え方は、「わたし」にまつわる内と外の区別を刷新します。

内も外も「わたし」としてあるのです

よりよい「わたし」をデザインするには、身を置く環境をデザインすること。
はたらく場所、つきあう人、着る服、話す言葉、歩きぶり。
そうしたところから、「わたし」や社会のリデザインは始められるのです。

あなたがどんな人たちと会い、どんなものを食べ、どんな言葉を話すのか。それによってあなたのありかたは変わっていきます。そして変化したあなたは他人や社会との関わり方も変わってくるでしょう。
どんなデバイスも入力が異なれば出力されるものも変わってきます。

じぶんの「生き方」をDIYする

「わたし」のものだと思っていた意志や価値観は、「わたし」のものではありませんでした。

この身体がさまざまな微生物や、人や、環境とかかわり合う中で形成される「情勢」、その様態。それが「わたし」です。

「わたし」の意志を否定することは、「じゃあ自分がなにやったってむだじゃん」という無力感に繋がりそうですがそうではないのです。
たしかに気の持ちようでは「わたし」は変わりませんが、「わたし」がどこでなにをしているかを変えていけば、あっという間に「わたし」は変わっていくのです。これは希望です。
どんなじぶんになりたいかを考えること。じぶんの理想の「生き方」をDIYしていくためには、どんな場所でどんなことをしていたいのかを、丁寧に点検していくことが必要です。
あなたにとって胸のときめく場所や行動が思いついたなら、まずはそれをセルフビルドしてみましょう。
理想を完成させるのは簡単な道のりではないかもしれません。
でもべつに完成させなくたっていいのです。
理想に向かってやれることからコツコツと積み上げていくプロセスは、それ自体で喜びです。多くの人にとって座禅が、悟りというゴールにたどり着くことではなく、ただ座るというプロセスそのものに満足を見つけ出しているように。
「明日から心を入れ替える」なんて言いながらただたいくつして暮らしていくよりも、心なんか入れ替えなくていいのでじぶんなりの気持ちのいい暮らし方を模索して試行錯誤しているほうがずっと楽チンです
僕は楽チンが大好きなので、より楽チンになるための試行錯誤を続けていきたいです。

さっそく今日は帰ったらほったらかしの糠床の世話を再開しようと思います。
べつにおいしい漬物ができあがらなくってもいいんです。
糠床をかき混ぜることはただそれだけで楽しいし、こうして糠床にかこつけてよりよい「生き方」のヒントまでもらってしまったんですから。

 

(シリーズ「発酵からサステイナブルを考える」は今回で完結です。引き続き『生活のSDGs』をよろしくお願いします!)

町でいちばんの素人

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柿内 正午
91年生まれ。26歳になり物心がついた2017年ごろからものを書き始める。
言葉を売買する会社・もっとmots( @motomots )契約社員/零貨店アカミミCEO(開店準備中)/町でいちばんの素人/都市型密猟者

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