先にことわっておくと僕は働くことが嫌いだ。
嫌いというと言葉が強すぎるかもしれないけれど、なんだろう、
働くと体の調子が悪くなるし、気持ちもイライラしてくる。
すくなくとも僕にとっては、働くことは健康に悪いのだ。
どうやら現在自分がのっかているシステムでは働かないと食っていけないらしい。
毎日をご機嫌に暮らしていきたい僕にとって、これはやっかいなことだ。
なんで働かなくちゃいけないのか。
それは多くのことがお金を介して行われるからだ。
働きたくない僕は、じゃあお金をやめよう、働くのも経済もいったんチャラにしよう、とか思ってしまうのだけど、それはそれで働くよりも面倒くさそうなのでほんとうにはやらない。
なんだかんだ働いてしまう僕は、なにを「働きがい」だと思っているのだろう。
そこで今回は「働きがい」というものについて考えてみることにしよう。
まず、SDGsの8つ目の目標「働きがいも経済成長も」の説明は以下のようになされている。
持続可能な開発目標(SDGs)は、生産性の向上と技術革新により、持続的な経済成長を促進することを狙いとしています。これを達成するためには、起業と雇用創出を促す政策の推進だけでなく、 強制労働や奴隷制、人身取引を根絶するための効果的な措置を取ることも重要です。こうしたターゲットに留意しつつ、2030年までにすべての女性と男性の完全かつ生産的な雇用とディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を達成することを目標としています。【HPより引用】
ここでいう「ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)」ってどんな仕事だろう。
ここにはっきりと「働きがいのある」と書いてあるのだから、「ディーセント・ワーク」を調べていけば「働きがい」に辿り着けそうだ。
わざわざ分けて書いてあるくらいだから、それは「安全かつ生産的な雇用」であることだけでは言い表せないものなのだろうなと思って検索してみるとすぐに1999年の第87回ILO総会でのファン・ソマビア事務局長の報告というのが出てきた。この報告は「ディーセント・ワーク」という言葉のデビューの場でもあったらしい。
ディーセント・ワークとは、権利が保障され、十分な収入を生み出し、適切な社会的保護が与えられる生産的な仕事を意味します。それはまた、全ての人が収入を得るのに十分な仕事があることです。
ぱっと見、「安全かつ生産的」であることを、言い換えただけのように思える。
ここでは「安全」とは、雇われたぼくらの権利が脅かされることがなく、生活していくのに不自由しないくらいの給料がもらえて、保険だとか社会的な保障もばっちり整備されている、ということだ。
みんなが「安全」な環境の中で思い切り「生産的」な仕事をしていけるといいよね、というのが今回のSDGsテーマの概要だと言えるだろう。
と、ここでぼくは躓いた。
待ってくれ、「働きがい」はどこにいったんだ?
そもそも「働きがい」ってなんのことなんだろう。
僕はまたグーグル先生に教えを乞うことにした。
そしてGreat Place to Work®という、世界各国の会社の「働きがい」を調査する専門機関のホームページを発見した。
そこには「働きがい」の定義というそのものズバリの項目まであった。さすが「働きがい」を調査する専門機関だ。
Great Place to Work®はまず指摘する。「働きがい」というのはひとそれぞれ異なるものだ。そこで、大まかに「働きがい」を定義するにあたって、雇われている側、そして雇う側のふたつの立場にざっくり分けている。
従業員からみた「働きがいのある会社」の定義
従業員が会社や経営者、管理者を信頼し、自分の仕事に誇りを持ち、一緒に働いている人たちと連帯感を持てる会社
マネジメント(会社)からみた「働きがいのある会社」の定義
「信頼」に満ちた環境で、ひとつのチームや家族のように働きながら、個人の能力を最大に発揮して、組織目標を達成できる職場
これが「働きがい」の専門機関による「働きがい」の定義だ。
専門機関の定義なのだから、これがほんとうなのだろう。
頭の固い僕はここまで書いてようやく気が付いた。
僕が問いたかったのは多分「働きがい」じゃなかったことに。
僕は多分、「やりがい」というものを考えたかったのだ。
ここまでをまとめると、どうやら「働きがい」とは「個人の権利や賃金が保障された健全な信頼関係の中で、一丸となって生産性の高い仕事を行うこと」にあると言えそうだ。
ここでいう「甲斐」とは、働くことによって収入や社会保障、そして信頼を得ることができるということだろう。
いま僕の勤めている会社は、少なくとも今のところ、不当に権利が踏みにじられることもあんまりないし(全くないとは言わない。飲み会に参加しなくちゃいけない雰囲気というのは「家に帰る権利」へのれっきとした侵害だ)、ともかく給料の支払いが遅れることもない(まったく少ない額だけれど)。保険証ももらえるし、クレジットカードの審査もすいすい通る。
そう、日本のサラリーマンである僕はもうとっくに「働きがい」を手にしていたのだ。
それなのに僕は、毎日会社に行って頭を痛くしたり、心をくさくささせたりしている。
これはどういうことだろう。
どうやら僕は、会社に「働きがい」だけでなく「やりがい」までもを求めていたらしい。
というわけで、今度は「やりがい」について考えてみることにする。
辞書を引いてみよう。
やり がい -がひ [0] 【遣▽り甲▽斐▼】
物事をするに当たっての心の張り合い。しがい。 「 -のある仕事」
はり あい -あひ [0] 【張(り)合い】
①
張り合うこと。競うこと。 「意地の-」
②
働きかけただけの反応が感じられ,充足感のあること。やり甲斐(がい)のあること。 「上達が早いので,教える-がある」 「 -のない仕事」
これだ。
砂場の砂を別の砂場に運んでいくような、張り合いのない仕事に僕の大事な時間の多くが割かれていることに、僕は怒りを覚えている。
きっとそういうことだったのだ。
たぶん、僕のしたかったことはこれじゃない。
もっと自分らしく、「やりがい」のある仕事がしたい!
……と、こういうふうにまとめられたら良かったのだけど、僕はここまで考えてきて、別に仕事に「やりがい」はなくてもいいと思い始めている。
「働きがい」があれば、十分かなあ。
繰り返しになるが僕は働くことが嫌いだ。
それが「やりがい」のある仕事だったとしても、きっと嫌いだ。
「やりがい」があろうとなかろうと、そもそも僕はやらなくちゃいけないことがあるという状態が大嫌いなのだ。
だからほんとうはもう息だけしていればいい、みたいな状況が理想なのだけど、そんなことばかり言っていると人間として生きている意味から問い直さねばいけなくなりそうだから黙ろう。
全部を全部、納得できる形に解き明かす必要はないのだ。
考えても仕方のないことは、必要に迫られるまでは放っておく。
これは毎日をご機嫌に生きるためのコツのひとつだと僕は思っている。
僕は徹底的に働くことが嫌いなので、働くことに「やりがい」は求めない。
いまある「働きがい」に甘んじよう。
だってなるべくいい家賃のするところに住みたいし、美味しそうなものはどんどん食べに行きたいし、気分のウキウキするようなお洒落もしたくなるかもしれないから。
もっと少ない勤務時間で、会社の人との飲み会が禁止されていて、もっといいお給料の出る仕事があったら、「働きがい」の向上のためにそっちに乗り換えるのもいいかもしれない。
けれども「やりがい」を求めて職を変えることは、おそらくないだろう。
「やりがい」を、「働きがい」と同じところに求めるのはすごく難しいことだと思う。
特に僕のように働くと具合が悪くなっちゃうようなタイプの人間には。
僕はこれからも、昼寝や散歩なんかに「やりがい」を求めていこうと思う。