日本最大級のオールナイトフェス「METAMORPHOSE」(現在休止中)のオーガナイザー そして日本を代表するテクノDJでもあるMAYURIさんに、これまでのお話しを伺ってきました。 今でも多くのファンを残し、再起動を待ち望みにされるメタモルフォーゼが生まれるまでの物語を 前後編に分けてお送りいたします◎
MAYURIさんのDJ動画を聴きながらどうぞ。
音楽って、悲しい音楽はどこの国の人が聞いても悲しいし、楽しい曲はどこの国の人が聞いても楽しいし、理屈じゃなくてダイレクトに心に伝わるんですよね。感動すると魂が喜ぶっていうか、私は生きてる間にどれだけ魂が喜ぶ経験ができるかっていうのを大切にしていて、それは音楽だけじゃなくても旅や他のクリエイティブな事でも小さな事でもいいんだけど、やっぱり野外で爆音で音楽が聴けたら最高じゃないですか。
MAYURI
Plofile
90年代初頭よりDJ活動を開始すると同時にパーティオーガナイズも手掛け、92年からトランスシーンの草分け的存在である「ODYSSEY」を始める。96年には伊豆山中で3日間のレイブを開催。その後はリキッドルーム等で数々の人気パーティ、イベントを手掛けた。
2000年から2万人以上の動員を誇る日本最大級のオールナイト野外フェスティバル「METAMORPHOSE」を開催(現在休止中)。DJのレジデンツとしては、「REBOOT」を始め国内外の多数のパーティでプレイ。
◎伝説の野外レイヴ「METAMORPHOSE」が生まれて、休止に至るまでどんな物語があったのかMAYURIさんの半生と共に伺いたいです。
茨城県水戸市郊外に生まれて、中学生ぐらいからぐれはじめましてね(笑)
県立高校を2ヶ月くらいで辞めちゃって。
音楽は、ヤンキーだったのでストレイキャッツとか聞いてた。
あとは70’s ディスコとか。
中学生からディスコとか好きで通ってて。
うそついてね(笑)
そういうやんちゃなこども時代を送ってまして。
それで東京で
ツバキハウスという日本で最初のクラブと言っても良いところで
毎週火曜日「ロンドンナイト」っていうのがあって
かかってる音楽もかっこいいし、来ている人もエッヂが効いてて
音楽とカルチャーとファッションの博覧会みたいな。モッズもロカビリーもパンクもニューウェーブもいて
すごい楽しかった。そこで友達も増えて。
当時ってごはんも無料だったりして、ごはんも食べにいってた(笑)
それ続きで会った友達がイギリスに住んでいて「私も行きたいなぁ」と思って
イギリスに行ったら楽しすぎて、3ヶ月のつもりが4年くらいいちゃって。

1987年っていうのはいまでいうアシッドハウス、クラブミュージックの原型みたいのが
アメリカで生まれてイギリスにも飛び火して、そういうのが流れる場所に遊びに行ってたんだけどその頃から4つ打ちにハマって。
そこからイギリスのクラブは同時多発的にどんどん人が増えていって
やがて野外レイヴがひらかれるようになったのね。
みんな許可とかとらなくて。勝手に音響システムとか広場にもっていってやるんだけど、告知も基本はフライヤーで電話番号が書いてあるんだけど、電話をするとどこそこのガソリンスタンドに行ってそこの黒人に聞け、とか言われるのね(笑)
だいたい人里離れた奥地でやってるから、みんな道に迷うんだけど行くと1000人くらい人がいてね、超楽しかった。
そこの体験がフェスを開くことになったきっかけかな。人生だと思ってたから、レイヴは。

その頃のイギリスってサッチャー政権だったんだけど、経済的に良くなくて労働者が本当に貧しくて、公衆電話は壊れてて5台に1台くらいしか使えないの。
それで若者は鬱憤がたまってたわけですよ。
だからレイヴは口コミだけで何千人も何万人も集まってた。
もうねー、自分たちが天下獲ったみたいな勢いで「これが自分たちの文化だ」みたいな(笑)
物凄い熱量で、超ハッピーバイブスで、何かが変わるような勢いだった。実際、大きな社会現象になって、今のクラブシーンのベースを築いた。
私は、当時はイギリスって普段からこんな国なのか、すごいな、って思ったけど
ああいうムーブメントは後にも先にもあれだけでしたね。
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MAYURIさんの体験した90年代のレイヴカルチャーの写真集はこちら
http://heapsmag.com/exist-to-resist-rave-culture-in-england-social-activism-music-counterculture
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それで91年に日本に帰ってきたんだけど日本のテクノはイギリスに比べるとまだまだしょぼくて
アングラで流れてはいたんだけどまだまだでね。
それで私は「このカルチャーを日本に広めなくてはいけない」と思っちゃって。

上:サイレントフェスに出演いただいた際の写真
ーー使命感みたいのが芽生えたんですか?
そう使命感みたいな(笑)日本でもみんな好きなはずって思って、デッキとミキサーを買ってまずは自分がDJを始めた。
音はレコードをイギリスからまとめ買ったりしてたんだけど、女のDJなんて当時ほとんどいないし、ましてやテクノだしなんだこりゃって感じで。
六本木にジオイドってアングラなクラブがあって、そこの木曜日のパーティーでアシスタントをやらせてもらってて
後にTTT(Tokyo Techno Tribe)というサイケレイブを始めるDJ KUNI のパーティだったんだけど
そこは今でいうサイケ、当時でいうゴアトランスのパーティーだったんだけど毎週朝4時頃から昼までの盛り上がりがもう凄くて
そこでトランスもすごいなって、トランスDJになったの。
そこから当時の彼氏とオデッセイっていうトランスのパーティーをやり始めて
毎回500〜600人は来てたかな。レストランとか撮影スタジオとか結婚式場とかちょっと変わった場所でやってたりしてた。
で、そのあと伊豆の山奥で3日間の野外レイブをやったの。
私的にはずっと野外でやりたいと思ってて、イギリスの光景を再現したいと思って。
その場所は春になるとキャンプエリアに桜がばぁっと咲くんだけど、桜を見ながらレイヴやりたいと思ってね。
※伊豆の3日間のパーティ、TRIBAL PLANETの写真
そこのオーナーはかなり変わったおじさんで、奥さんは3人いるし宇宙エネルギーの研究とかしてて、その場所を独立国家にするって言っててね(笑)
パーティー中もね、自分の車を白と黒で塗って、カタカナでパトカーって書いてて走らせてて、かわいいおじさんだった(笑)
それは3日間のパーティーだったんだけど、
1日目の夜から雨が降ってしまったのね。
でもやめずに続行して3日目は晴れたんだけど、もうそれが大変すぎて。
前の準備から後片付けまで含めると10日くらいロクに寝れなくて、1000人くらいお客さんは来たんだけど大赤字をこいちゃって。
私はそれで燃え尽きてしまってね。「しばらくオーガナイズはやりたくない!」ってオデッセイも含めて全部ストップしてDJだけやってたの。
ただそのレイヴに来たお客さん達からことあるごとに「もう一回やってよ」と言われてて、まぁ楽しかったは楽しかったし4年経ってトラウマも消えつつあったし、前回ので知恵もついてたから、2000年にメタモルフォーゼをやりました。

富士山の麓の朝霧のもちや遊園地っていう場所で3ステージつくって
最初は3000人くらい来てたかなぁ。
ただ国道に面した場所だったから苦情が酷くて、それからは2度とできなくなり(笑)
そこからはRAINBOW2000を立ち上げた一人のM.M.デライトの森田さんが
富士山の麓の日本ランド HOW遊園地を紹介してくれて3年間やってた。
すごくいい人だったの。
いやそう、これだよ!と思ったね(笑)
すごく影響を受けた。楽しかったし、日本でもこんな大規模のレイブが行われるようになったと、感動しました。
HOW遊園地は自然現象がユニークなところでね。
メタモの時も3年目は赤富士が見えたり、虹が見えたりすごいよかったですよ。
野外でやると自然の演出がばっちりはまれば一番あがるよね。

ただそこの社長さんが変わってしまい、もうHOW遊園地ではできなくなってしまったのね。そこから会場探しの旅にでて、2004年は苦肉の策で苗場でやりましたね、フジロックと同じ場所。
あそこはいい場所なんだけど、本当に何もないただの場所で遊園地みたいに一捻りがないから「ちょっと違うよね」って話になって、また別のある人からサイクルスポーツセンターを紹介されて、そこからずっとサイクルですね。
私ってものすごい晴れ女で11回目まで天気には恵まれていたんだけど
2011年にでかい台風にあたってしまって。当日ぎりぎりまでやる気でいたんだけど、緊急会議で中止になってしまったのね。
その次のメタモは「野外は怖いから室内でやりましょう」ってなって幕張メッセでやったんだけど、室内だとやっぱ他のイベントと同じようになってしまって、メタモらしさがでないというか、それはちょっと違うと思って、しばらくお休みしましょうということになりました。
そこから友達に誘われて3年間バリ島に行くことになり、DJもしつつクラブもやっていて。
今は帰国してしばらく東京に住んでいましたが、現在は北海道ニセコに冬のシーズン中います。友人のレストランで料理をしてます。
ちなみに、メタモ復活の可能性はありますか?
いつか復活する気ではいるんですけど、サイクルスポーツセンターが留守にしている間にオールで使えなくなっちゃって、4つ打ちはやっぱり日が暮れてからだと盛り上がり方も違うし、考え中です。
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後編に続く!
【後編】日本最大級の野外レイヴ「METAMORPHOSE」について