コラム

【生活のSDGs】「正しいこと」はなぜダサいのか?-正しさが生むクソ-

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小林秀雄をはじめ多くの賢い先人たちは口を揃えてこう言う。
大切なのはどう答えるかではなくどう問うかだ。

「正しいこと」はなぜダサいのか?

連載1回目の記事はこちら

 

この問いは、はたしてよく問えているのだろうか。
心のこもった道を歩もうとするものに、心も考えもないままに剛速球で投げつけるクソリプになってはいないだろうか。そんな風に自問自答しながらも続けていきましょう。本連載のなかで、僕が見つけたいと思っているものの一つが、心も考えもないクソリプに対して、心ある道を歩もうとする人たちの応答はどのようでありうる/ありえないのかという判断基準のようなものだ。

SNSの台頭を待つまでもなく週刊誌やワイドショーが昔から体現してくれていたように、ほとんどの外野からの応答はクソリプである。SNSは単に個人をワイドショー化しただけであり、いまやTV局の企画会議を通さずとも個人がダイレクトにクソリプを世に広く発信することができる。インターネットによって品性が堕落したのではない。堕落した品性にすら席を与えてしまうのがインターネットなのだ。

インターネットが夢見た自由や多様性というのは、クソをものびのびとのさばらせるものなのだ。そもそも自由も多様性もきれいごとでもなんでもない概念だ。自由は多様性の保障は確かに「正しい」。けれども自由や多様性をただ保障した社会というのはクソの温床にもなりうる。インターネットなんてまさにそうじゃないか。インターネットの夢見た「正しさ」が何を生んだ?トランプ大統領くらいじゃないの?多くの人にとって「正しさ」というのは真実のことではなく、自分の見聞きしたいもの・信じたいものでしかなかったことをインターネットは明らかにしてくれた。

リバタリアン・パターナリズムという言葉があって、これなんかはまさに自由と多様性が生み出すクソへの危機意識から生まれたものなんじゃないかと思えてくる。自由な父権主義とでも訳せるこのへんてこな言葉は、「個人の自由は保障されていなければいけない、かといって個人個人の自由な選択がクソばかりでは困る。であれば環境を上手に設計することによって、自由な個人が自らすすんで「正しい」選択ができるように促していこう」というような考え方だ。

純度百パーセントの個人というものがありえないのと同じように、純度百パーセントの個人の選択というのもありえない。人は周りの環境や構造によって、知らず知らずのうちにその行動や思考を制限されているし、ある程度は決定づけられてすらいるだろう。であれば、いい環境や社会構造を用意すれば、みんないい人間になるんじゃない?

僕はごりごりに構造主義者なので、上記のような考えには結構「いいね!」しがちだ。けれどもちょっと待てよ、それってようはゆるい全体主義みたいなことだよね。リバタリアン・パターナリズムの夢見る社会は、たしかにクソは少なくなって住みやすいかもしれない。けれどもそれは内から外からパノプティコン化された、ディストピアにもなりかねない社会でもありそうじゃない?ちょっと怖くなってきちゃったよ。

脱線に脱線を重ね、そもそも論旨があるとも思えないこの文章のなかで、すでに二つの「正しさ」がお互いに対立している。クソをも許容する野放図な自由と多様性の「正しさ」と、選択肢をこっそり制限することでクソの増殖をやんわりと抑え込む「正しさ」。

第一回からそうなのだけれど、僕はクソの受容の程度についてずっと考えているようだ。「正しさ」がダサいのは、どうあれその「正しさ」はクソリプを生み出してしまうからだ。クソを受容するのであれ、制限するのであれ、「正しさ」はいつしか必ずクソとの付き合い方に対峙せずにはいられなくなる。ここまでクソクソクソクソ某海賊漫画のコックさん並みに言い続けてきてしまったけれど、ここではクソというワードを「他人にクソリプを送ってしまう個人たち、その心象」「ある物事に対する条反射のようなクソリプ的感情」などを強引に包括して使っている。

ダサいとかクソだとか、お行儀の悪い言葉ばかりキーワードの様に連発してしまい自分でも辟易としてしまうけれど、他人からの「うわ、ダッサ」という声や、あまたのクソリプにもめげず、自分の信じた道を気分よく歩いていくためには、一度ちゃんとこのお行儀の悪いキーワードに取り組んでいかなければいけないような気がするのだ。
わかんない、なんか途中で「もうクソのことなんか考えなくてよくね?俺は俺だし俺の信じた道を勝手に突き進むだけだわ」なんて開き直ってしまうかもしれない。だってしんどいもん、クソについて考えるの。自らのクソだけでなく見ず知らずのクソまで相手してらんないよ。
けれども、考えてみようと思う。
「正しさ」を問うには、まずクソを問わなければならないという直観がある。
「正しさ」は、僕たちはクソ掃除をしていますという顔をして、より多くのクソを生み出しているかもしれないことに無自覚であってはいけないと思うのだ。クソにならずに済んだかもしれないものまでもがクソにならざるをえない状況を作り上げてしまうのも「正しさ」というものだから。

ちょっと抽象的になり過ぎてしまった。
次回はもう少し具体的に、日常的に出くわすクソをどうやり過ごせばいいのかを考えていけたらと思う。もしくは自らのクソとどう向き合っていけばいいのかを。
「正しさ」や「ダサさ」からは少し、いやかなり離れてしまうかもしれない。
それでもたぶんこの寄り道は避けてはいけないように思う。

第三回はこちら

町でいちばんの素人

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柿内 正午
91年生まれ。26歳になり物心がついた2017年ごろからものを書き始める。
言葉を売買する会社・もっとmots( @motomots )契約社員/零貨店アカミミCEO(開店準備中)/町でいちばんの素人/都市型密猟者

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