コラム

「正しいこと」はなぜダサいのか?③ 「正しさ」は子供のものである?

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かつて邦画界の『アメリ』みたいなポジションにあった映画『かもめ食堂』には、北欧暮らし界隈のミームとなっている名シーンがある。フィンランドに食堂を開いて悠然と暮らす小林聡美に対して片桐はいりが「やりたいことやっていいわね」と問いかける。すると小林聡美はこう答えるのだ。

「やりたくないことはやらないだけなんです」

ずいぶん前に観たきりだから、台詞のディティールはあいまいだけれど、ググったのでだいたい合っているはずだ。

菊池成孔氏もいつだったか出典も失念したのでかなりあいまいなのだけど、これからのアイデンティティは「何を読み、聴き、経験してきたかを語る加算式自己紹介ではなく、何を読まないできたか、聴かないできたか、経験しないできたかを語る減算式自己紹介」で語られるだろうというようなことを言っていた記憶がある。

またドミニク・チェン氏も何かのインタビューで社会問題などを論ずるときは、すぐさま大きな問題に取り掛かるのではなく、ひとりひとりの個人的な「ペイン」から始めるのだというようなことを話されていた。当事者意識の芽生えるところから、はじめて「ペイン」を生み出す構造の存在と、自分もその一員であることに気がつけるのだと。( https://wired.jp/series/ferment-media-research/05_moyashimon-2/ )

ひとは好きなことでよりも、嫌いなことで繋がる。

やりたいことよりも、やりたくないことのほうが強いモチベーションになることが多い。

クソにすらそれらしい席の与えられるインターネット以後の社会の中で、よりよく生きていきたいのならば自分にとって何がクソなのかを見極めることだ。

何がクソで何が最高なのか、その判断基準の形成を検索エンジンやSNSがご丁寧にも用意してくれるフィルターバブルになんか任せていてはいけない。人任せはダサい。てめえの価値観くらい手前で作れ。作ったら壊せ。どうせそんな価値観はろくなもんじゃないし、時代はめまぐるしく変わっていく。

どんどん変わって行くことだ。美意識を持とう。最悪ダサくてもいいから、半端でもいいからどんどん価値観をアップデートしていき、決して時代遅れのクソにはなってやらないという美意識を。

また時代そのものがクソである時、クソトレンドに対して唾を吐きかける美意識を。僕がいいたのは、常に自らの行いを反省し、点検し、修正していこうぜということだ。ちゃちな自己防衛の正当化なんか、ぜったいに肯定したくないので勘違いしないでほしい。自意識を美意識と混同して、自己正当化のために意固地になっている輩ほどサムいものはない。

僕はそういう者たちをクソだと思う。クソとは、まず、自分を起点にしてしかものを語れないことだ。そして他人が起点としているところを自分にはわからないからと安易に踏みにじっていくことだ。想像力のないバカはクソだ。

想像力という言葉もクリシェかもしれない。

まずは、自分にだけ都合のいいユートピアへの妄想を表すために濫用されがちなこの言葉を取り戻さなければならない。想像力とは「じぶんには想像もつかないけれど、あの人にはあの人の状況や理想があるのだろう」と考える力のことだ。

想像力とは、個人の想像できる範疇の限界を自覚した後にこそはじめて獲得されるものだ。「俺の想像の範囲を超えているからダメ」というような物言いはほんとうにクソだ。てめえのちゃちな想像などはなからアテにしていない。そのちゃちさを自覚することだけが想像力だ。

個人の想像するものの限界を認めたものだけが、その外側の存在を想像することができる。そうした想像は、はっきりとした像を結ぶことはないだろう。その人個人の能力を超えているのだから。

けれどもそうやって自分の能力を超えたところにも世界はあるということを認めることからしか、クソでないものは生まれないのだと僕は信じている。

「正しさ」が生むクソは、「正しさ」の内向性によって生まれる。

それは仕方がないことだ。「正しさ」とは「内輪受けする価値観」でしかない。「正しさ」とは相対的なもので、絶対的ではありえないのだ。

「内輪受け」だから、その外側には想像は及ばない。そもそも外側は判断の対象外なのだ。

けれどもだからといって「内輪の俺たち仲間だけが最高YEAH!外野のことはどうでもいい」と、無遠慮に外側のひとたちに迷惑をかけたり、我が物顔であちこちを占拠することは本当によくないことだ。

「内輪受け」は、基本的に外から見ればはなはだダサい。

自らの限界に自覚的な「正しさ」だけが、「正しさ」の外側まで考えを巡らせることができるのだ。

「正しさ」という「内輪受け」の価値観は、子供の価値観なのかもしれない。

子供は具体的な生活というもの、具体的な経験に乏しいから、抽象的なまっとうさというものを強く持つだろう。

だから、いつだって子供たちは大人たちよりも「正しい」

僕らはもう大人なのだから、すくなくとも子供ではないのだから、具体的な生活のなかから考えをすすめなくてはいけないのではないか。

大人の世界は、すぐそこに理解できない外側が広がっている。

右も左もどちらも正しくなさそうななか、それでも折り合いをつけて進んでいくしかない。そんなとき、大切なのは、どこに行きたいかではなく、どんなところには行きたくないかだ。外側ばかりの暗中模索の中で、目的地に効率よく辿りつこうなんて無理だ。

そうじゃなくって、わからないことだらけの道中を、面白がりながら、自分を常に問い直しつつ、進んでいくしかないのだ。じぶんにとってのクソを避けつつ、心ある道を歩んでいこう。きょうも楽しい散歩になるといいね。

町でいちばんの素人

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柿内 正午
91年生まれ。26歳になり物心がついた2017年ごろからものを書き始める。
言葉を売買する会社・もっとmots( @motomots )契約社員/零貨店アカミミCEO(開店準備中)/町でいちばんの素人/都市型密猟者

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