第一弾・「わけへだてと共感」スクール・ナーランダへ行ってきた。
前回のレポートに続き、今回はトーク編!
まずは認知科学者の高橋英之先生。
塚田農場のサービスは欺瞞か?
こころがある?ない?
人間の笑顔をつくるロボットは
愛がある?ない?
外側から価値をもらってるサービスに対して我々は欺瞞を持ちます。
では本当の「こころ」は身体の奥底から湧いてくるのでしょうか。
一方で・・
「人間は玉ねぎと同じで仮面の総体であり芯はない。」
と演出家の平田オリザ氏は語っているとお話しされました。
では「こころ」はたまねぎの皮のような演技の集合体で芯となる演技のない「こころ」とはないのでしょうか?
という問いから入り、一気に引き込まれました。
高橋先生はロボットにどこまでこころを感じていけるのかを調べることにより
逆にロボットにもつことができない人間固有のこころについて考えるような研究をされているようです。
例えば
ロボットがハンマーでボコボコに叩かれてるひどい動画を見ると
人間は人間が叩かれてるのを見るのとと同じような脳のパターンを示し
音に合わせて太鼓を叩くロボットが自分が太鼓を叩くリズムと同じような動きをすると、脳の報酬系(お金をもらったり、褒めてもらうと活性かするところ)が活性化するようです。
人間はロボットと対照的な関係になることができて、その間に新しい価値を生み出すていくことで
ロボットにこころが実現するといいます。
また人には一人称価値(感じる価値 ex.雨を感じられる人と、濡れるだけの人がいる)と三人称価値(語れる価値 ex.**を受賞したよ)があり、そのバランスが能動的な未来をつくるとお話しいただきました。
1人称価値の重要さの例として水木しげるさんの「幸福の7カ条」を例にだしていただきました。
幸福の7カ条第一条・成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行なってはいけない。第二条・しないではいられないことを続けなさい。第三条・他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。第四条・好きの力を信じる。第五条・才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。第六条・怠け者になりなさい。第七条・目に見えない世界を信じる。
「人間らしさ」があるんだなぁととっても勉強になりました。
2人目はMr.chirdren、松任谷由実などのアートワークや企業CMを手がけるアートディレクター森本千絵先生。
「goen°」という会社をされていて、その由来は金沢の1人のおばあちゃんとの出会いだったそう。これまで広告やデザインをつくってきた背景には人や様々な物事との「ご縁」をつくりたかったんだとおばあちゃんとのご縁から気付かされたそうです。
人、こと、あらゆるものとの一見関係ないように見えるご縁から、様々なクリエイティブが生まれていったことを事例を通して紹介してくださいました。「遠い過去のご縁が未来をつくっていく」のだと。
印象的だったのはお話し後半のワーク。
「隣の人と手を合わせて、何かを感じたらもう1人の横の人に言葉を出さずに伝えてください」というもの。最初は、手の触覚を通じて感じたものをそのままもう片方の腕へ伝達するという感じでしたが、そのあと「隣の人にゆっくり、気持ちを込めて伝えてください」と指示があり、そのように伝わってきたものに「こころ」の在りかを感じたような気がしました。手から手へ、でなく手から心に、そして手へという順序クリエイティブとはこういうことなんだなぁと感じました。
3人目は本願寺派僧侶の天岸淨圓先生。
「今朝目覚めて何か感じたか?」(関西弁のイントネーションで)と問います。
多くの参加者は何も感じなかったと反応しましたが
天岸先生はこう続けます。これまで目が覚め続けてきたから今朝、目が覚めたことに何にも感じなかった。
そしてそれが明日明後日も続いていくように日々を過ごすから、色彩が薄い。
でも今日と同じ明日は過ごせない。
感受しなければならないところに感受せず、しなくていいところに感受する人間。
「因」という字は布団に人が大の字で寝てる様子。
目が覚めて背伸びをすると「よう寝れた」と思う。
そしてそれは結果。理由は布団があったから、食べ物があったから。それを感じられるのが「恩」。
他の宗教は「肉体」と「精神」を説くが、仏教はそれとプラスで「言葉」を大事にする。
昼ごはん食おうかと、昼ごはんいただこか、の違い。それが感受性を生む。
いい感受性を幸せと呼ぶ。どうやっていい感受性を培っていくかです。
誰の世話にもなってない人はいない。
高齢化するということはお世話になる人の数が増えるということ。
世話になっていることを幸せと思うか、劣等感と思うか。
他の命を喜ぶこと、他の幸せを真面目に喜ぶことやな。
これで説法を終わります。
と、文字にすると固いですがユーモアを混ぜつつ、ウィットに富んだ楽しい説法でした。

映像人類学とは、世界各地の人類文化を映像、映画として記録する学問で
学術的資料としての民族誌映画を川瀬先生はつくられています。
川瀬先生はエチオピアの北部にいる音楽を生業とする人たちに注目していました。
現地には下記の2つの音楽が存在しているそうです。
ーー
ゼマ(神様からの贈り物、神聖な音)
ーキリスト教正教会の儀礼音楽、賛美歌
ゼファン(世俗の歌、踊り)
ー専業の音楽家に担われるべきもの
ーー
日本では音楽家というと、アーティストとも表現され
クリエイティブな印象がありますが、現地では職能者として被差別集団に当たるようです。
実際に観せていただいた映画ではアズマリと呼ばれる音楽家たちが
演奏機会を狙って街を彷徨っていました。
民家の前で急に歌い出して、家主は気にいったらお金を渡します
そうするとアズマリたちは歌の続きを歌うというシステムです。
彼らを撮影する際に映像人類学として、自分の存在を映像から消すように
できるだけ客観的に撮影しようとしていたそうです。
しかし、カメラにはどうしても現地の人々からの目線や、声かけが映り込んでしまいます。
そんな存在を消しきれないジレンマから、次作では対象の人々の言動に参入する方法論に発展していかれました。
つまり映像人類学を「同時代に生きるあなたとわたしの対話と共感の地平」へ昇華させたということです。
様々な国や民族と接してきたこれまでからのこの転換は「わけへだてと共感」を考える上で重要な変遷だと感じました。
川瀬先生の作品はこちらからご覧頂けます。

自己紹介のようにフリースタイルラップしながら会場を自由に歩き回ります。
お話しもまるでラップの韻を踏むように次々に言葉を連想させて続けます。
音楽はリズム、コード、メロディと層があって、リズムは黒人音楽から発展していったという
音楽的な話から、国によって環境が全然違って、葬儀の仕方も火葬だったり、土葬だったり鳥葬だったり異なってくるし、言葉も違ければ、食べ物や宗教も違い、様々な違いを連想することで理由を紐解いていきます。わけへだてがあることは、そりゃ当たり前だよねということを認識していきます。そして「なんとなく納得いかない文化を納得させるものが宗教なんじゃない?」とお話しして1つの歌を紹介してくださいました。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 西行
「ここにどのような神がいらっしゃるのかは
存じ上げないが、身にしみるようなありがたさが
こみ上げてきて、思わず涙がこぼれてしまった。」という歌です。
様々な違いが当たり前に存在する世の中ですが、価値観の違いを乗り越えて
もっと高次の共感や感謝を歌っている歌に見えて、その美しさを感じました。
そして最後に、生きていることの定義は「伝達」であると
リチャードトーキンスの言葉を借りてお話ししていました。

最後は本願寺派の僧侶、小池秀章先生。
学校で授業ももってらっいらっしゃった小池先生からは「浄土真宗」の教えについて学びました。
浄土真宗は鏡のようなもので鏡自体を見るのではなく
鏡に映っている自分を見ることで浄土真宗に学ぶのだと仰っていました。
特に印象的だったのは「お陰様」という言葉について。陰とは自分の親のそのまた親の親の親の親の親、、先祖代々脈々と続いてきて自分がいる原因となっている全ての先祖のことで、お陰様とはこれまでいてくれた陰に敬意を表す言葉だと言います。
私がいてお陰様なのではなくお陰様があって私がいる、私があって繋がりがあるのでなく、繋がりがあって私がある互いに持ちつ持たれる繋がりあった関係にあるというのが「縁起」といって仏教の根本原理とのことでした。
そもそも私の中には私と私以外の全ての命があるようなそんな感覚です。
そして浄土真宗は「浄土」に往生することを目指す真実の宗教なのだとお話しが続きます。浄土とは、すべてのものが光り輝くわけへだてのない世界で、悟りの世界だと言います。悟りとはそもそもこの世界はわけへだてのある世界だと知った上で、高次の共感を持ち他人も自分もない世界に生きることだと想像します。
しかし、他人の悲しみや痛みもすべて共感して感じていく悟りと快感原則に基づく個人の幸せとは比例するのだろうか
と感じてしまいました。すると小池先生は人のために生きること、高次の共感それ自体が尊いことだとお話しされました。
これにはなんだか救われた気がしました。

そしてその後は登壇者の方々の鼎談があり
最後は参加者でグループをつくりシェアリングを行います。
学者の方々は何か1つの答えを提出してくれようとしていました。
宗教家の方々は信仰のフレームの中で救いを提示してくれようとしました。
そしてアーティスト達は感じたことをそのまま自由な表現で伝えようとしていました。
そこには優劣もなければ、違いもほとんどないように感じました。
「わけへだてを認識した上で、より高次な共感へ」という共通のベクトルは
参加者の空気としても浸透していて、批判もなく相手を主体的に支えていくような態度で
お話しする方が多くて、ナーランダ自体が浄土にかなり近い場だったんじゃないかなと思います。
ただ参加者の方々の声を聞くかぎり森本さんと環ROYさんのお話しが良かったと言う方が多かったです。
それは何故か考えたのですが、学者の方は知識、宗教家の方は知恵を伝えていただいていたとして
アーティストが伝えていたのは多分こころのようなものでした。
時にそれは言語化されず、表情や声調や身振り手振り、歌、映像、踊りで表現され
それがちゃんと伝わっているのかどうかに敏感だったような気がします。
それは人の心を動かす職業としての、それぞれ別の世界を持つ私たちに”伝える”方法の示唆がありました。
また、分からないを続けることで、分かるようになるということ
相手も自分もない高次の共感という概念は、奇しくも私がつくっている
Quantumという量子力学の世界の意図するところと重なり、仏教とのシナジーを改めて感じました。
そして最後に今回のスクール・ナーランダのプロデューサー
林口砂里さんに、京都編の感想とコミットするSDGsを伺って終わりたいと思います。
スクール・ナーランダ-京都編-の感想
「2,500年受け継がれてきた仏教の教えをどうしたら次世代につなぐことができるか」
というミッションに、浄土真宗本願寺派 子ども・若者ご縁づくり推進室の皆さんと一緒に取り組んで1年半。
ただのイベントではなく、仏教を押しつけるのでもなく、かつ若い人たちのニーズにも合うものをと考え
ようやく形にできたのが、この「スクール・ナーランダ」です。
仏教をはじめ多様な分野で積み重ねられてきた人類の知恵を学び
これから生きていくための「軸」を作れるような「学びの場」を作ることを目指しています。
第1回目の京都を終えて、誰よりも学ばせてもらったのは自分ではないか?と思うくらい
講師の方それぞれから、参加者の皆さんから、そして大学生を中心としたサポートスタッフの皆さんから多くのことを学びました。
2日間6人の講師の皆さんは僧侶をはじめいろんな分野の方たち。お話がかみ合うか、正直不安もありましたが
実際は多様な視点から一つのことを表現していたような、全てがつながるような不思議なまとまりを持ちました。
また、参加者の方たちに主体的な参加を促すためにと
グループでの行動やディスカッションという形を提案してくれたのはサポートスタッフの皆さん。
そして参加者の皆さんの学ぼうとする強い意欲。生き生きとしたそして時に真剣な皆さんの表情
びっしりと書き込まれたメモ、前のめりになってディスカッションする様子に本当に心打たれたんです。
あの場にいた一人一人が縦糸横糸になって、誰一人欠けてもできない一枚のタペストリーを織っていたような、そんな感覚を持ちました。 関わった全ての方に感謝の気持ちでいっぱいです。
もちろん課題や反省点もありましたが、若い方達のポテンシャル
そして「仏教」の持つ深さと強度、など大きな可能性も感じました。
だからこそ、これは継続しなければいけないなとも思いました。
より良いものにしていきたいですし、今後の「スクール・ナーランダ」の展開が私自身とても楽しみです。
林口さんのコミットするSDGs
SDGsの17の目標について、私がコミットできるとしたら
「目標2. 飢餓を終わらせ、食料安全保障及び栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する」でしょうか。
私は長い東京暮らしから、4年前に生まれ故郷の富山県高岡市に戻ってきました。
父の実家の里山で畑をしたいというのが動機の一つでした。
そこは子供のころ毎日のように通った、自分にとって原風景となっている場所で
自分を受け入れてくれる場所として変わらずそこにあった喜びの一方で
人の手が行き届かなくなり荒廃も始まっていたことにショックを受けました。
父と一緒に山の整備と農業を始めたことで、山と海の循環のことや、F1種と固定種のことなどを知るようになりました。
固定種をできるだけ使うことはもちろんですが、F1種も数世代を経ると固定種になるとのことなので
毎年種を採って使うことを心がけています。
去年からは友人も畑作りに参加してくれ
今年は仲間とお米作りにも挑戦したいと思っています。
微力ながら持続可能な農業の促進に関われたらと思っています。
ーー
SDGs2の課題を見る!
スクール・ナーランダの今後の情報はこちらから!
https://www.facebook.com/HonguanjiNalanda/?fref=ts